花を摘んでお葬式/遺影を描くという、どちらかというと「死」から始まった私の絵。
シロツメクサからはじまりタンポポ、アジサイ…と身近に咲く花を摘んでは燃やし描くを繰り返しました。
けれど、進めていくにつれ、違和感を感じ始めたんです。
遺影を描きたいわけでも、花を燃やしたいわけでもないのにって。求めてるのはそこじゃないって。
そして、結論を先に言うと、花の姿から「生」「死」の二元論を超えて「死→生」「生→死」と命の循環・つながる環として考えるようになりました。
では改めて。なぜ花を描きたいのか?
そもそも私はなぜ花が好きなのか?花に何を見てそんな風に考えるようになったのか?
ひとつめ。
花を擬人化しているということ。
「殺してしまった、遺影を描こう」という捉え方や、
花を選ぶ際に「この子美人さんやなぁ」「この子丸っこくておとなしそう」など、性格や振る舞いを考えていたりすることからわかりました。
無意識だったんですが、花に”人”として接していることが多かったんですね。
けれど、あくまで「擬人化」。花は、人ではなく動物でもない。
話し出したりしないし、ちぎっても血を吹き出したりもしない。
静かに、時にはアスファルトやぶるくらいしたたかに、咲くべきところで咲き、切られればあっけなく枯れる。死んでゆく。
人に見立てるほど愛着があるもの、けれど生→死への移行が短く、動物のように生々しくなく、淡々と進んでいくこと。そこに魅力を感じます。
このような思いは、例えば、
花に性格や人格を見ることからは、ものに魂が宿る考えであるアニミズム、日本古来の八百万の神様が宿る考え方につながったり。
命のサイクルや淡々とした命の移行からは、輪廻転生や個性の消失、無常観を感じたり。
花の姿を通して、私はいろいろなことを派生して考え、感じることができるんです。
(つづく)
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かとか (月曜日, 09 3月 2020 14:29)
「花の魅力、私が花を通してみるもの(ひとつめ)⌋
その後の自分の、作品のプロセスは、作品を、燃やす、それを削るの繰り返し。残ったのは痕跡。
それが、自分のリアリティー。
ドローイングは、海に行って、鉛筆で波の形を線で描いて、白色の色鉛筆で消す。また、来た波を描いて、それを白色の色で消す。の繰り返しみたいなドローイングを描いたりしてました。
出来たドローイングは、痕跡だけです。
それは、自分の記憶の痕跡。
そんな事、してました。