その時期、ちょうどお外はシロツメクサが満開。摘み放題、しあわせです。
大阪から京都まで2時間かけて通って、花輪を編んで、虫つかまえて、お昼寝して…また2時間かけて帰る。一か月ほどそんな感じで過ごしました。
しかし、ここは大学。作品を提出しないと単位がもらえません。
どうしよう…制作室で呆然としていると、見つめる先にはシロツメクサの花輪がずらり。
この一か月、作っては壁にかけてきた子たちです。
それを見たとき、「あー、私、花を殺したんだ」って思ったんですね。
自分の持て余した時間をつぶすために、ちぎって殺した罪悪感にかられたんです。
じゃあどうする…?
せめて弔おう。
そう思って火葬しました。花輪を一か所に集めて、マッチで火をつけて。
この時、どうやって絵を描くかとか、構想練らなきゃとか、考える余裕もありませんでした。
ただただ、白く乾いた骨のような花輪が焼け焦げていくさまが目に焼き付いていました。
…で、単位ですよ。
ですが、もう絵を描く気力がありません。
だったらせめて、せめて最後まで弔おう。
ただそれだけの思いで、燃えゆく花輪を遺灰で描き、遺影としました。
そして教授に「もう無理です」と伝えると…
「それが君のスタートだ!!」と。
(当時の絵/燃えるシロツメクサの花輪の絵)
*
びっくりしました。ココですか??って。
けれど、落ち着いて考えてみれば「花を摘む」「絵を描く」というのは小さいころから興味のあったこと。
本来の自分に立ち返っただけのことでした。
確かに、花を摘んでる間の一か月って、心地よかったんですね。
童心に帰ってる期間というか。
それって、「何かをうまく描かなきゃ」「コンセプトちゃんとしなきゃ」という余計な悩みをそぎ落として、(表現がくさいかもしれないけれど)純粋に魂が喜ぶことしてたんだなって気が付いたんです。
ここから、「私が花を摘むこと」「私が花を描くこと」の関係性を考えていくことになります。
これが、私のお花を描き始めたきっかけです。
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かとか (土曜日, 07 3月 2020 17:30)
そんなで、二回生後期からは、洋画棟には行かず、版画室で制作をしてました。(これも、版画部に入ってから知ったのですが、先輩方の功績で、版画の先生に講評してもらえば、単位は取れました)
そして卒展です。これだけは、洋画の講評会に参加しないわけにはいきません┅その年は、会場の面積に余裕があるので、大きな作品でも大丈夫だと聞いていたので、大きなパネル3枚組の作品を持って、洋画の講評会に参加したのですが、洋画の方の作品がみんな大きくて、「自分の作品を1ピースだけにするか、単位は出すので、卒展は辞退する様⌋と言われ┅どうにも納得が行かず、卒展搬入1週間前に、教室に泊まり込みで制作して、卒展、出したのですが┅
卒展、転けてしまいました(ノ_・。)
そして、卒業後、京都の精華大学の版画科の研究生に1年間行きました。
しかし、名古屋の大学の卒展で、転けてしまいましたので、作品、作れないのです(/ー ̄;)
お世話になった先生にも「京都まで何しに来たの⌋と言われ┅
当然ですね(゜_゜;)
そこで、もう一度、版画のどこに興味を持って、作品を造り始めたのか、考えました。
「版⌋と「作品⌋の関係、「実像⌋と「虚像⌋の関係、そこに残るのは、「プロセス⌋ 「存在⌋
そして、造った作品が、1枚の写真を撮って、プリントして、その写真を持って、撮った場所に行って、その写真を置いて、また、撮影をする。
後に撮った写真の上に、オリジナル?の写真を張って、紙ヤスリで、ただ、イメージを削る。
残ったのは、真っ白な削り跡と、グレー色の削り粉
作品を、見てもらうと「100人に、1人も、解らないだろうね⌋とニヤつきながら「ここからだな⌋と言ってくれたのは、名古屋の大学の版画室で、当然、声を掛けてくれた人でしたo(^o^)o
もう、ずいぶん前の話しです。